完全攻略!ベートーベン
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ベートーベンの作風

人の行うこと全てには、千差万別の個性が現れます。美術や音楽などの創造的な分野において、そのような個性を「作風」と呼びます。作風には、その人が影響を受けた音楽家や芸術家の影や、その人の持つ感情や考え方が如実に現れます。


ベートーベンの作風

ベートーベンは、いわゆる「古典派」から「ロマン派」への移行期に活躍した、二つの時代の架け橋を務めた作曲家です。そのため、ハイドンやモーツァルトなどの古典派の代表格から影響を受けた部分と、ロマン派の礎となる部分をその作風に内包しているのです。

古典派とは?

バッハ古典派はバッハが活躍したバロック音楽の次に現れた、1730年代から1810年代までの音楽文化の総称です。その名の通り古典派は温故知新をテーマとして掲げ、バロック時代にマンモス的に肥大した音楽構造をギリシャ・ローマ文明の頃の昔のように単純化しようという動きだったのです。古典派は、出始めたばかりのピアノの独奏曲など、シンプルな構成の楽曲を次々と生み出していきました。西洋においては、「古典」は必ずしも古めかしいものを指す言葉ではなく「考えうる最高に向かって取り組む姿勢」を意味しています。バロック音楽で行き詰ったかに見えた西洋音楽は古典派の登場によって、新しい息吹を吹き込まれたのです。

ロマン派とは?

音楽分野におけるロマン派は、1800年代初頭に現れた新しい音楽文化です。古典派とロマン派の活動した時代は重なっており、相互に影響を及ぼしていたことは想像に難くありません。ロマン派音楽は、同時期にドイツ文学で発生した「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風)」運動の影響を受けており、「理想と現実」「標題音楽と絶対音楽」といった対立関係をテーマとした作風を持っています。ロマン派が活躍した時代は音楽的な技法においても発展を見せた時代であります。また、ロマン派音楽では「楽曲に表題は必要か」という議論が行われていています。自分の楽曲に表題をあまりつけなかったベートーベンの活躍した時代ならではの議論といえます。

ベートーベンに影響を与えた音楽家

ベートーベンは、1787年に尊敬するモーツァルトと出会うまで誰かに指示しなかったわけではありません。1782年に、ベートーベンは宮廷オルガニストを勤めていたクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事しています。当時12歳のベートーベンは、父ヨハンからのスパルタ教育によって天才ピアニストとして売り込みされていました。父親の情熱が才能の育成のためではなく、自分の飲み代を稼がせるためであることにうすうす気づいていたベートーベンは、音楽が嫌いになりかけていたのです。そんなベートーベンを救ったのがネーフェなのです。ネーフェは、ピアニストとしてだけの教育を受けていたベートーベンに作曲方法を指南し、自分が持っていたバロック時代の楽譜を貸し与えて音楽を楽しむことをベートーベンに教えたのです。もしも、ベートーベンがネーフェに出会っていなければ、「二十歳過ぎればただの人」な元・神童として一生を終えていたかもしれません。現にベートーベンは、ネーフェに「もし僕が将来偉くなることがあれば、それは全てネーフェ先生のおかげです」と伝えているのです。一期一会には、必ず意味があるのです。

モーツァルトとの出会い

バイオリンそもそも、父ヨハンがベートーベンを天才少年ピアニストとして売り出そうと考えたのはモーツァルトがいたからです。モーツァルトは、宮廷バイオリニストであったレオポルドによってその才能を見出され、各地の宮廷で演奏を披露しています。この時、モーツァルトは3時間弱の演奏でレオポルドの収入8年分を稼いだといわれています。名ばかりの宮廷歌手であったヨハンにしてみれば、これほど美味しい話はないでしょう。自分は働かなくても子供が稼いでくれればそれに越したことはないのです。そういう意味では、ベートーベンにとってモーツァルトは「尊敬すべき先達」であると同時に「余計な前例作りやがって」という嫌悪の対象であったのです。そんな複雑な感情を抱いているモーツァルトと出会ったことは、ベートーベンの転機となります。モーツァルトへの弟子入りは母の急病で叶わなかったものの、ベートーベンは音楽家として独り立ちする自信を獲得したのです。

ハイドンへの師事

ベートーベンがハイドンに師事したことで得られたのは、少なかったといわれています。この時期のハイドンは名声をさらに高めるための活動を熱烈に行っていた時期だからです。ハイドンがベートーベンに提出した課題も、245曲中42曲しか添削されていなかったという逸話が残されているほどです。そのため、ハイドンに師事していた時期のベートーベンは、並行してヨハン・シェンクやアントニオ・サリエリにも師事しています。サリエリは後に、ベートーベン幻の交響曲となる「ウェリントンの勝利」の初演にも参加して打楽器の指揮を担当しています。映画「アマデウス」では、嫉妬深い人物として描かれていた去サリエリですが、面倒見のいい音楽家だったのです。この時期に学んだ作曲技法などは、「ハイリゲンシュタットの遺書事件」後の「傑作の森」時代で大いに発揮されることになります。

ベートーベンの個性の発露を追う

これらの出会いによってベートーベンは、技術を磨き自分なりの音楽の作風を見出していくことになります。

ベートーベン初期の作風

ハイドンベートーベンの初期の作品からは、モーツァルトやハイドンの影響を受けた非常に明るい作風であったことが伺えます。「教わったことなど何もなかった」とハイドンを評したベートーベンでしたが、師匠に対する敬意が多少なりと込められているのです。ベートーベンがデビューした1794年当時は、ピアノは主役を務める楽器ではないと考えられていましたが、ベートーベンはピアノ三重奏曲でデビューするというまさしく破天荒な個性を見せ付けたのです。しかし、逆に言えば初期の作品は「モーツァルトやハイドンの影響から抜け出せきれず、奇策としてピアノを主役に据えた」作風ともいえます。この初期の作風は、「ハイリゲンシュタットの遺書」を書くまで続くことになります。

ベートーベン全盛期の作風

難聴の自覚と進行によって、ベートーベンが自分の命を絶つことまで考えた1802年以降、ベートーベンの作風は脱皮を果たしていくことになります。初期の作風はモーツァルトやハイドンの影響を受けていましたが、それをスパッと切り捨てて実験的な構成を取り入れたり、一般的ではない技法を取り入れたりといった変化が見られてきたのです。「学ぶ」という言葉は元々「まねぶ」であり、人の真似から自分自身のオリジナルにしていくことであるといわれています。この時期のベートーベンは、人真似から自分だけの個性を築きあげていったのです。

ベートーベン晩年の作風

論語では、40歳を越えると「不惑」といって迷いがなくなってくるとされています。しかし、ベートーベンの不惑以降は迷いと焦りに彩られた時期であったといえます。甥カールの養育権をめぐる争いや、スランプによる停滞などで作曲できなかった時期が存在しています。しかし、晩年のベートーベンの作品には堂々とした風格があり名作として現代に語り継がれるものばかりになっています。晩年の代表作には「ミサ・ソレムニス」「交響曲第七番」「交響曲第九番」などがあります。この時期のベートーベンは、完全に自分だけの作風を確立していて、より楽曲の完成度を高めることに執心していたようです。「傑作の森」時代を過ぎたベートーベンは、より高みを目指し続けるようになったのです。


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次は交響曲第三番「エロイカ」
 
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