完全攻略!ベートーベン
ベートーベンと世界
 
 

ベートーベンが生きた時代、世界では何が

ベートーベンが生きた、1770年から1827年の57年間は音楽界にとっても世界にとっても大きなターニングポイントとなる時代でした。封建制国家が次々と倒れていく契機となったフランス革命、いまや世界の中心を担うアメリカの独立など、世界の勢力地図を大きく塗り替えることになる出来事が多発したのです。


ベートーベンが生きた時代・世界編

ベートーベンの生まれた1770年前後は、世界が大きく変わる予感にあふれた時期であったといえます。1769年にジェームス・ワットが実用的な蒸気機関を開発し、産業革命の気運が高まりつつありました。その一方で、資本家と労働者の格差は広がりつつありました。

アメリカ独立運動への軌跡

コロンブス北米大陸は、大航海時代の1492年にコロンブスが西インド諸島を発見して以来、欧州各国による入植が行われてきました。この当時の先進国が集まっていた欧州は、医療技術の発達などで人口が増大していたこと、清教徒革命などで体制側と対立した勢力が新天地を求めていたことなどの問題を抱えていたのです。16世紀ごろから、アメリカ大陸は「新世界」と呼ばれ、行き詰まりを見せていた欧州各国に様々な利益をもたらすことになります。

アメリカとイギリスの対立

ボストン茶会事件1770年当時の北米大陸には、各国からの移民がコミュニティを形成していましたが最も勢力の大きかったコミュニティがイギリス系移民のコミュニティでした。このイギリス系コミュニティは、イギリス本国によって統治されていましたがイギリスにとってアメリカは「植民地」でしかありませんでした。貿易の制限や重税などで負担をかけられていた移民にとって、既にイギリスは故郷ではなく邪魔者でしかなかったのです。当時のイギリスは、フランスなどとの長い戦争を行っていたため、財政を立て直すための財源をアメリカなどの植民地に求めたのです。アメリカに入る全ての紙に税金を課す「印紙法」が失敗したイギリスは、イギリス人の嗜好品としてアメリカ移民にも親しまれていた紅茶に税を課す「茶法」を制定し、アメリカに輸入される紅茶をイギリスからのものに限定させようとします。これに反発したアメリカ移民はボストン港に入荷した茶を投棄する「ボストン茶会事件」を起こしました。この事件がきっかけになり、イギリスとアメリカの対立は決定的なものになったのです。

アメリカ独立への道

ワシントンアメリカ移民たちは「大陸会議」を開き、自治権の獲得のための運動を起こしイギリスからの独立を図っていきます。もちろん、イギリスもそれを看過するわけにはいきません。こうして起こったのが1775年のアメリカ独立戦争です。イギリスにしてみれば、アメリカは植民地であり今後多大な利益を生み出すであろう「金の鳥」です。そんなアメリカが反旗を翻しても長くは持たないだろうと考えていたようですが、1776年に「アメリカ独立宣言」を発表し状況が目まぐるしく動いていくことになります。当時、イギリスと対立していたフランスがアメリカを支援したのです。フランスの参戦に加え、ロシア主導による武装中立同盟の結成などでイギリスは完全に孤立する形になってしまったのです。これがアメリカ側の勝利の引き金になったといっても過言ではないでしょう。強い支援を受けたアメリカは、ジョージ・ワシントンを司令官に抗戦を続け開戦から7年目にしてついに勝利を勝ち取ったのです。

アメリカ独立の影響

1783年、アメリカとイギリスはフランスの仲立ちでパリ講和条約を締結し、アメリカは自治権を獲得します。この時のアメリカは東部13州で構成され、それぞれがバラバラに自治を行っていました。1786年、アメリカ合衆国憲法が制定され現在のアメリカ合衆国が誕生しました。初代大統領には独立戦争の英雄であるワシントンが選ばれ、2期8年に渡って大統領を務め上げます。しかし、アメリカがイギリスから独立して万事安泰というわけではありません。アメリカ独立を支援したフランスは、多額の軍事費を投入したため財政が圧迫され民衆への重税という形で帳尻を合わせなければならなくなります。一方イギリスは、アメリカの独立を認めはしたものの未だアメリカの支配者であるという意識を持ち続けていました。アメリカの、完全なイギリスからの独立は1812年の米英戦争を待たなければなりませんでした。

フランス革命の勃発

ブルボン王朝を打倒したフランス革命は、「ベルサイユのばら」や「ナポレオン~獅子の時代」などの漫画でも取り上げられる、歴史的にも強い意味を持つ出来事であるといえます。

フランス革命の原因とは

ルイ16世フランス革命の原因となったと考えられている事柄はいくつかあります。「ルイ16世と妃マリー・アントワネットの放蕩」や「食糧不足に対する有効策を打たなかったこと」、「重税を貸したこと」「アンシャン・レジームへの不満」などが有力な説とされています。フランス革命へと時代を動かしていったのは、18世紀半ばにおきた啓蒙思想による国民主権による共和制政治への熱望であったとも言われています。

「パンがなければ~」の真実

マリー・アントワネット食糧不足の救済を叫ぶ民衆に向かってマリー・アントワネットは「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と答えたといわれています。この逸話は、「フランス革命は傲慢な権力者を引き摺り下ろすための正義」であったとする根拠として語られることがほとんどです。しかし、この話にはいくつかの反論が存在しています。まず一つは、「このセリフを言ったのはマリー・アントワネットではなかった」という説があります。啓蒙思想家として知られるルソーの告白録では、フランス革命以前の1740年にある伯爵夫人が言った言葉であるとされています。第二に「お菓子ではなくブリオッシュであった」という説です。ブリオッシュは、現代では菓子パンとして扱われているお菓子で、卵とバターを多めに使用したパン生地で作るものです。また、「食糧難の場合はブリオッシュをパンと同じ価格で売る」という法律があったといわれているため、このセリフ自体にはまったく悪意はないとも解釈できるのです。

ブルボン王朝の財政難の原因

ブルボン王朝が崩壊するきっかけとなったのは、ルイ16世とマリー・アントワネットの放蕩生活のためであるといわれています。オーストリアから14歳でルイ16世に嫁いだマリーは、恵まれた結婚生活を送っていたとはいえませんでした。おっとりした気質の持ち主であったといわれるルイ16世との性格の不一致や、子供が出来ない悩みなどを異国の地で一人抱えていたといわれています。この頃、孤立無援のマリーに取り入ってきた非主流派の貴族が、マリーの威を借りて贅沢を国の財布で行い、マリーもそれに乗ってしまったことがブルボン王朝の権威の失墜と財政難につながっていったのです。ルイ16世とマリーの仲は子供ができたことによって回復し、母親としての自覚が芽生えたマリーは良き母・良き妃となることを決意したようです。しかし、イギリスとの戦争の費用などで一度傾いた財政難を立て直すまでは手が回らなかったのです。そして、ラカギガルと浅間山の大噴火による世界的な凶作で、食糧難と税収の減少が来たことで二人の命運が尽きることになったのです。

ナポレオン、フランスを統治

フランス革命は、ルイ16世夫妻を処刑してもなお終わることはありませんでした。フランス革命の前半戦が封建国家の打倒であるなら、後半戦は権力闘争に集約されるのです。しかも、革命政府派・王党派の争いに加えてイギリスや、マリー・アントワネットの実家であるオーストリアが革命への干渉を大義名分にしてフランスに攻め込んできていました。この戦いの中で、一人の砲士官が頭角を現していくことになるのです。

ナポレオンの登場

ナポレオン・ボナパルトナポレオン・ボナパルトは、フランスとイタリアの中間にあるコルシカ島で生まれました。父カルロは、コルシカ島独立運動のリーダーであるパオリの副官を務めていましたが、パオリがイギリスに逃亡したことで、フランス側に寝返りナポレオンをフランスの学校に通わせることができるようにしました。このカルロの決断によって、ナポレオンはフランス軍人としての道を開くことになります。砲士官として従軍したナポレオンは、自らフランス革命に身を投じます。帰還したパオリにコルシカから一家追放されるなど紆余曲折を経て、ナポレオンは革命政府派で活躍を積み重ねていきます。1793年、ナポレオンはイギリスに占拠されていたツーロン攻略で功を上げ、ジャコバン派のロベスピエール一党が排除されたテルミドールのクーデター後に起きた王党派の反乱を大砲で鎮圧したナポレオンは、イタリア方面での対オーストリア戦線の司令官に抜擢されるのです。

ナポレオン、王座へ

ロゼッタ・ストーンイタリアでオーストリア軍に大打撃をあげたナポレオンは、続いてイギリスの補給路を絶つべくエジプトに遠征を図ります。エジプトに侵攻したナポレオンでしたが、後方を守るフランス艦隊がネルソン提督によって大敗を喫してしまい、エジプトに孤立することになってしまいます。このエジプト滞在中に発見したのが、古代エジプト文字解読のきっかけになる「ロゼッタ・ストーン」です。一方、このころのフランスの政権を握っていたポール・バラス率いる総裁政府は度重なる外国との戦いの中で、民衆の信頼を失っていました。これを好機と見たナポレオンは豊臣秀吉の中国大返しのごとく、エジプトを脱出しフランスに取って返しブリューメルのクーデターを起こし総裁政府を倒してしまったのです。こうして、ナポレオンは混迷のフランスを平定した英雄として執政政府を樹立し、フランスの頂点に着いたのです。

ナポレオン、皇帝へ

コルシカ島1799年、フランスに支配されていたコルシカ島生まれのナブリオーネ・ブォナパルテは、フランスの統治者ナポレオン・ボナパルトとなりました。ナポレオンは、フランスを理想的な近代国家にすべく「ナポレオン法典」の制定を行うなど、革命と戦争で疲弊したフランスを立ち直らせるための活動に熱心に取り組んでいました。そしてナポレオンは1804年、王制の復活を恐れた人民の投票によってフランス皇帝の座に就いたのです。これを知ったベートーベンがブチ切れて交響曲第三番のタイトルを書き換えたというのは有名なエピソードですが、一説には第二楽章が英雄へのレクイエムをテーマにしていたため失礼だと考え献呈を取りやめたとも言われています。実際のところ、ベートーベンがナポレオンにキレてタイトルを書き直したのなら、第二楽章をそのままにして献呈してもよいと考えることもできるので、ベートーベンはナポレオン以外の誰かのために交響曲第三番を作曲していたと考えるのが自然でしょう。

ナポレオン、転落

アウステルリッツの戦いしかし、ナポレオンは革命を疎んじた諸外国との戦いの中で行ったロシア遠征で世紀の大敗を喫してしまいます。大敗の原因は、かつてアウステルリッツの戦いで破ったロシア軍の強さにではなく、ロシアの厳しい気候風土に敗北したのです。この敗北のため、腹心のマルモン元帥らにクーデターを起こされて、エルバ島に追放されることになります。エルバ島を脱出して再び政権を奪取したものの、つづくワーテルローの戦いで破れたナポレオンは、終生の地となったセント・ヘレナ島に流され52歳の生涯を閉じたのでした。ナポレオンがその生涯を閉じた後、欧州の各国やロシアで革命の気運が高まっていったのは歴史の皮肉といえます。


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