完全攻略!ベートーベン
ベートーベンと世界
 
 

ベートーベンが生きた時代日本では何が

ベートーベンの生きた時代の日本は、町人文化の一つである化政文化が起こった時期や、田沼意次が幕政に関わった江戸時代の中でも面白い時代の真っ只中だったのです。「天下百年の安泰」というぬるま湯の中にあって、ベートーベンの生きていた時代の日本人たちはいったいどのような出来事に遭遇していたのかが気になります。


ベートーベンが生きた時代・日本編

ベートーベンの生きた1770年から1827年は、第10代将軍・家治と第11代将軍・家斉が治めていた時代です。この時代は、賄賂が横行した腐敗政治を行ったとされる老中・田沼意次やその後を引き継いだ松平定信が幕政で活躍した時代でもあり、小説やドラマで取り上げられることの多い時代なのです。

ベートーベンの時代の武士たち

ベートーベンの生きていた時代、武士たちは「剣で身を立てる」のではなく「学で身を立てる」ことを迫られていたといえます。武士たちの活躍の場である戦は1637年の島原の乱から130年あまり、一切起きていませんでした。鎧兜はいざという時の為に蔵にしまわれているだけの無用の長物となりつつあり、家禄だけでは家計を支えられず借金まみれになるものも続出した、武士の一分もあったものではない時代であったのです。そのため、いわゆる「旗本奴」として無頼を働く武士も続出し、幕府にとっても武士にとっても頭の痛い時代であったのです。

火付盗賊改方の活躍

旗本奴の中には、専業盗賊と組んで悪事を働くものも居たといわれています。こうした盗賊や旗本奴たちは、商家などを襲ったり材木屋の手先となって放火を働いたりと江戸の治安を悪化させる元凶ともなっていました。そこで登場するのが「火付盗賊改方」です。池波正太郎の「鬼平犯科帳」で有名な「鬼平」こと長谷川平蔵宣以が活躍したのも、ベートーベンの生きた時代である1787年から1795年のことなのです。火付盗賊改方は放火犯や窃盗犯を取り締まる役職であるのは有名な話です。火付盗賊改方は、現代でいえばSWATやSATなどの特殊部隊的な存在でした。大岡越前や遠山の金さんで知られる奉行所は、事務方の文官が運営していたのですが、火付盗賊改方は武官によって構成されていたのです。「鬼平犯科帳」は史実を元に構成したいわばセミ・ノンフィクションで、現在も高い人気を得ています。

政治は本当に腐敗していたのか

田沼意次は、「幕府内に賄賂を横行させた悪政を行った人物」として語られることの多い人物です。しかし、本当に「田沼の水」は汚れていたのでしょうか?

田沼意次の政策

田沼意次田沼意次は第9代将軍家重と第10代将軍家治に引き立てられ、1769年に老中に昇進しています。老中は、現代で言えば総理大臣に匹敵する役職で、田沼は際立った才覚によって出世を重ねた立身出世の鑑と言える人物だったのです。その才能は幕政の中でも遺憾なく発揮され、幕府の財政や民衆の生活を大きく改善していったのです。江戸時代までの日本は、米を財産としてみなし米を経済の基盤とする重農主義経済であったことが知られています。田沼は重商主義経済への転換を図り、幕府の財政を大きく黒字転換することに成功しているのです。田沼はカルテルの一種である「株仲間」を奨励し、冥加金と呼ばれる税金を徴収することで商業を活発化させています。また千葉の印旛沼・手賀沼の開拓事業を町人の出資を募って行うことで新田の開発事業にも取り掛かっています。田沼はそのほかにも、長崎・出島での貿易を奨励し、蘭学を保護するなどの海外との連携を促進させるなどの大胆な政策を採っています。しかし、田沼は家治から家斉への政権交代に呼応して失脚してしまいます。

清き流れに魚も住みかねて

その後老中を引き継いだ松平定信は、田沼の行った改革を否定する「寛政の改革」を行います。しかし、「白河の清き流れに魚住まず 元の濁りの田沼恋しき」と歌われたように、贅沢を禁じ芸能から衣服の布地までの庶民の生活の張りまでも締め付けるものであったため定信の評判は良いものではありませんでした。この寛政の改革では蘭学を規制し朱子学を奨励したり、棄損令を出して旗本の借金を棒引きにして商人に損を出させたりと後々の社会不安の種を残すことになるのです。

明治維新の火種

徳川家斉定信を引き立てた11代将軍・家斉はまれに見る子沢山で、男子26人女子27人の総勢53人の子供たちの多くを各地の大名の養子に送ったといわれています。将軍の子供を押し付けられた各大名は養育費に悩まされることになります。家斉は贅沢好きの浪費家であったため田沼が立て直した幕府の財政はたちまち傾き、綱紀粛正を図っていた定信は疎まれて罷免されることになります。この家斉の浪費癖は子供たちにも受け継がれていたようで、養子先となった藩が後の明治維新において倒幕運動に参加することになった遠因であると考えられています。

田沼は本当に悪政を行ったのか

田沼の悪評は、おそらく松平定信の時代に広められたものであると考えられています。何しろ、贈られた賄賂をつき返した話や賄賂の取り締まりを行ったという話もあれば田沼を批判していた松平定信自身も田沼に賄賂を贈っていたという説があるのです。現代では、田沼意次という人物は「悪名もあるものの、先見的なビジョンに基づく政策を行い幕府の建て直しに尽力した政治家」であったと考えられています。

ベートーベンの時代に起きた天災

ベートーベンの生きた時代は、農耕技術などもまだまだ未発達で天候不順などで不作になることは珍しいことではありませんでした。ベートーベンの時代に日本で起きた天災は世界的に大きな影響を与えることになります。

明和の大火

田沼意次が老中を務めていた明和9年(1772年)、現在の目黒区にある大円寺から出火した火事はたちまち江戸の市中に飛び火したのです。この時の犠牲者は一万五千人近くに上り、「江戸の三大火」の一つに数えられることになります。よく「火事と喧嘩は江戸の華」といわれますが、江戸時代の家屋は紙・竹・木で作られており屋根も萱葺であったことが火事を江戸の華にした原因であるといわれています。田沼は明和の大火の後、屋根を萱葺から瓦葺にするように通達を出しています。

浅間山大噴火・天明の大飢饉

浅間山天明3年(1783年)8月5日、群馬県と長野県にまたがる活火山である浅間山が大噴火を起こします。流出した溶岩による犠牲者は千五百人ほどでしたが、この噴火の本当の影響はこれからです。大噴火によって巻き上げられた粉塵は太陽光を遮り、天候不順を起こし近年まれに見る凶作を引き起こしたのです。この凶作によって2万人が飢餓で、連動して発生した疫病で28万人が犠牲となりました。これを天明の大飢饉と呼びます。各地では食糧を求めた民衆による打ちこわし騒動が発生し、田沼失脚の一因となったのです。

浅間山大噴火がフランス革命に繋がった?

アイスランド現在の研究では、浅間山の大噴火だけが天明の大飢饉の原因ではなかったことが判明しています。日本から遠く離れたアイスランドのラカギガルでも、浅間山大噴火に先駆けた「ラカギガル割れ目大噴火」が起こっていたのです。このラカギガルで巻き上げられた粉塵は、気流に乗って世界中に広まったのです。ラカギガルと浅間山で発生した大噴火は、日本だけでなく世界中で凶作を発生させることになります。この凶作で最も影響を受けたのがフランスで、フランス革命の遠因となったといわれています。


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