完全攻略!ベートーベン
ベートーベン指揮
 
 

ベートーベンの苦悩

人生とは苦難の連続であると言われますが、ベートーベンの人生もその例外ではありませんでした。放蕩者の父に振り回されながらも自ら選んだ音楽家の道は、まさしく苦難の道そのものでした。ベートーベンはその生涯の中でどのような苦悩を抱き、立ち向かったのか。


ベートーベンの苦悩

ベートーベンに襲い掛かった苦難の中でも、もっとも大きかったのは間違いなく難聴ではないでしょうか。

ベートーベンと難聴

難聴などの聴覚障害は、音楽に関わる上で致命的であるといわれています。後天的な難聴であれば耳が聞こえにくくなる前に記憶した音や、音という概念の存在を理解できますが先天的な聴覚障害の場合、「音」という概念の無い世界で生きているのと同じことになるからです。スティービー・ワンダーやレイ・チャールズのように視覚障害を持つミュージシャンに対して、聴覚障害を持つミュージシャンはごく僅かなのです。その僅かな聴覚障害のミュージシャンの一人がベートーベンだったのです。

なぜベートーベンは難聴になったのか

ベートーベンが難聴になった理由には、いくつかの仮説が存在しています。一つは、父ヨハンから受けたスパルタ教育の中で、耳を殴打されたのが原因となったと言う説です。耳への衝撃で難聴になることは珍しいことではないものの、発症時期が少年演奏家として活躍していた時期から10年以上経った20代後半のことなので、現在では根拠としてはやや弱いものと考えられています。第二の説には、梅毒説があります。梅毒は15世紀ごろからヨーロッパで猛威を振るった病気で、ベートーベンは母子感染する先天梅毒だったのではないかと言うのです。梅毒の症状に難聴があること、梅毒の潜伏期間とベートーベンの難聴発症の時期が符合すること、梅毒の精神的な影響とベートーベンの癇癪などの根拠から有望視されている説と言えます。もう一つの説が、鉛中毒によるものという説です。当時のヨーロッパは酢酸鉛(さくさんなまり)を甘味料として食品添加物に使っていたと言われています。鉛中毒も難聴や神経系への影響があるだけでなく、ベートーベンが悩まされていた腹痛や下痢を伴うため有力な仮説とされています。

ベートーベンの「ハイリゲンシュタットの遺書」

難聴という音楽家生命最大のピンチに直面したベートーベンは、自分の命を絶つことも考えていました。後世の研究では、同時期にピアノソナタ「月光」を贈った一回り年下の貴族令嬢、ジュリエッタ・グイチャルディとの身分違いの恋に破れていたようです。難聴と失恋の痛手がベートーベンを追い詰めていたのです。ベートーベンは1802年10月、療養先のハイリゲンシュタットの邸宅で遺書を記します。

「ハイリゲンシュタットの遺書」の真の目的

遺書を書いたとき、ベートーベンが考えていたのは「この世からの離別」ではなく「今までの自分との決別」だったようです。遺書というには全然絶望している様子が感じられない文章で、「ハイリゲンシュタットの決意表明書」と言ったほうが適切な内容なのです。ベートーベンは、遺書を書くことで自分の人生を見つめなおしこれからをどう生きていくかを考えていたのではないでしょうか。事実、この「ハイリゲンシュタットの遺書」を記してからのベートーベンは、作曲活動に専念し矢継ぎ早に名曲を発表しています。

ベートーベンはどうやって難聴を克服したのか

ウィーン元々、ベートーベンがハイリゲンシュタットにやってきたのは難聴を治療するためです。ハイリゲンシュタットには温泉が湧いていて、ドイツで発達した温泉療法にはもってこいの土地だったのです。しかし、ベートーベンの難聴には温泉療養の効果はありませんでした。では、どのようにしてベートーベンは難聴というハンディキャップを克服して音楽活動に専念していったのでしょうか?

音を「聴く」から「感じ取る」へ

ベートーベンは、特製のピアノを発注し難聴の克服に乗り出しています。ピアノは、張り詰めた弦をハンマーで叩いて音を出す弦楽器の一種なので、弦を叩いた振動が伝わってくるようにすれば難聴のベートーベンでも音の強弱を把握することができます。一説によれば口にくわえたタクトをピアノに接触させて、歯を通して振動を感じたとも言われています。ベートーベンは今で言う骨伝導を利用して音を感じていたのです。ベートーベンは、感じ取った音と耳が聴こえていた時期の音の記憶と音楽知識で作曲を続けたのです。作曲以外のときは、筆談と聴診器のような補聴器の原型で会話を行っていたようです。

甥カールの悩み

ベートーベンは幼い頃から、ニート同然の父の代わりとなって家族を支えてきました。中でも次男のカスパール(資料によってはカール)はベートーベン最愛の弟でもありました。しかし1815年、カスパールは41歳の生涯を閉じます。カスパールが残した遺言状では、息子カール(資料によってはカール二世)の養育権をベートーベンとカスパールの妻ヨハンナの二人が共同で持つとされていました。カールの養育権を単独で取得したかった伯父ベートーベンと、お腹を痛めて生んだ実母ヨハンナの間で訴訟が発生します。この養育権争いは、ベートーベンとヨハンナだけのものではなく、末弟ニコラウス・ヨハンやベートーベンの音楽仲間を巻き込んだものとなり、最終的にはベートーベンが養育権を単独で勝ち取ることになりますがこの訴訟を行っていた時期のベートーベンは、慢性的な腹痛などもあって作曲活動を満足に行えていなかったようです。

カール自身の苦悩

ピアノレッスンベートーベンは、カールに正式な学校教育を受けさせゆくゆくは自分の跡を継いでもらいと考えていたようです。しかし、カール本人にしてみれば、伯父の愛情はいささか重いものであったようです。父カスパールが病没したのはカールが9歳の頃のことで、まだまだ親に甘えたい盛りの時期です。そんな時期に今までと違う生活環境を伯父に突然強要されたのですから、たまったものではありません。ベートーベンによって通わされることになった学校をたびたび脱走しては、母ヨハンナの元に帰っていたというエピソードが残されています。学校生活だけならまだしも、ベートーベンの弟子だったツェルニーからのピアノレッスンも受けさせられていたので、カールにとって心休まる時はほとんど無かったのです。

カールの反抗

伯父であるベートーベンの偏愛によって、生活や願望を抑圧されたカールは徐々に精神の均衡を失っていきます。大学中退やベートーベンによる監視と言った生活の崩れの中で、カールは絶望の淵に立たされていたのです。1826年、腕時計を質草にしてピストルを手に入れたカールは、バーデンで自害を試みたのです。幸い一命を取り留めたものの、カールは目的を遂げたと言えます。この事件を知ったベートーベンはひどく狼狽し健康を崩してしまうのです。ベートーベンは、この事件以降カールの進路に対して口出ししないようになったのでした。


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