完全攻略!ベートーベン
ベートーベン指揮
 
 

ベートーベンの生涯

ベートーベンの生涯は、波乱に満ちたものであるといえます。才能ゆえに、他の兄弟とは違う道を歩まねばならなかったこと、父に引きずられた青年時代、音楽家の命である耳が聞こえなくなるトラブル、結ばれることの無かった「不滅の恋人」、甥カールを巡る親族との争い、カールとの軋轢といった不運がいくつも積み重なった生涯の中でもベートーベンは絶望しませんでした。


ベートーベンの生涯

ドイツボン大聖堂ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンは1770年12月16日前後に、ドイツのボンでこの世に生を受けました。ベートーベンの誕生日の記録はなく、教会で洗礼を受けたのが1770年12月17日であることがわかっているだけです。ベートーベンの生家は、宮廷歌手として成功したベルギー系移民の祖父ルートヴィヒ・ヴァンをはじめとする音楽家の家系でした。しかし、父のヨハンは歌手として大成することなく呑んだくれになり、家計を祖父の稼ぎに頼っていました。ベートーベンが幼少の頃に祖父がこの世を去り、とたんに困窮するようになります。

少年演奏家としてデビュー

普通ならば、ここでヨハンが父親として心を入れ替えて働き始めるところですが、不摂生によって歌手生命が既に終わっていたヨハンは、当時世間を賑わせていた天才音楽家のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトにヒントを得てベートーベンに音楽教育を始めます。モーツァルトも音楽家の家系に生まれ、6歳の頃から宮廷演奏で名を馳せていた当時のアイドルアーティストだったのです。ヨハンは、ベートーベンを第二のモーツァルトにするべくピアノ演奏を教え込み、7歳で演奏会に参加させたのです。ヨハンによるプロデュースは、必ずしも成功と言えるものではなかったものの「早熟の天才」ベートーベンの存在を示すには十分なものであったのは確かです。10代になる頃には、ベートーベンは同名の祖父に代わって家計を支えていたのです。

ベートーベンの青年時代

フランツ・ヨーゼフ・ハイドンベートーベンが16歳の時、訪れたウィーンで念願であったモーツァルトとの対面を果たします。この時、モーツァルトは30歳で「フィガロの結婚」の公演を成功させた頃でした。ベートーベンは、モーツァルトへの弟子入りを希望していたのですが、母マリアの突然の訃報によってボンへとんぼ返りしなければならなくなります。この4年後にモーツァルトも鬼籍に入ったため、ベートーベンはモーツァルトの弟子になることは無かったのです。22歳の時には、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンに師事したベートーベンは母に続いて父ヨハンを病気で失うことになります。こうしてベートーベンは弱冠22歳で弟二人を抱えて音楽の都ウィーンで新しい音楽家人生を歩み始めることになります。ベートーベンはハイドン以前にも、宮廷オルガニストを勤めていたクリスティアン・ゴッドロープ・ネーフェにも師事していましたが、本格的な作曲技術を学ぶことになったのはハイドンに師事してからです。1794年、ベートーベンは処女作となる「ピアノ三重奏曲」を発表し少年演奏家を脱却し音楽家としての道を歩み始めるのです。

難聴を自覚したベートーベンの決意

ベートーベン難聴1798年、ベートーベンが28歳の時に自分の耳が聞こえづらくなってきていることに気がつきます。現在では、ベートーベンの難聴の原因は「耳硬化症」であったのではないかと言われています。耳硬化症は、鼓膜からの振動を内耳に伝える耳小骨の骨細胞が増殖・硬化することで音が伝わりにくくなる症状です。難聴には伝音性難聴と感音性難聴の二種類があるのですが、耳硬化症が進行すると伝音性難聴から感音性難聴になると言う性質があるのです。つまり、「音が聞きとりにくい」が「音が聞こえない、音が出たのがわからない」になっていくのです。この症状は、音を楽しむ音楽を作りだすベートーベンにとって致命的なダメージであったと言えます。この難聴を自覚してからのベートーベンの症状は日に日に進行していきます。30歳になるころにはもうほとんど聞こえなくなっていたようです。この難聴を苦にしたベートーベンは自害までも考えていたようです。しかし、演奏家を含めた従来の音楽家から作曲専業としての音楽家に転進することでベートーベンは音楽家としての道を繋ぐことを決意したのです。

立て続けに名曲を製作・発表

難聴に向き合うようになったベートーベンは、次々に楽曲を量産していきます。特に1804年から1814年までの十年間は「傑作の森」と呼ばれるベートーベンの黄金期となります。この時期には「エロイカ」「運命」「田園」などの交響曲やピアノソナタ、オペラ用楽曲などが製作・発表されています。この時代に作られた楽曲は、ベートーベンが生涯に製作した楽曲の半数を占めるほどの量と完成度を持っているのです。

不遇の晩年

晩年のベートーベンは、「交響曲第九番」「荘厳ミサ曲」などを作曲しています。しかし、この頃のベートーベンにはある悩みがありました。それは、甥のカールのことです。ベートーベンは三兄弟の長男だったのですが、1815年に次男のカスパールが妻子を残して夭折してしまったのです。ベートーベンはカールを自分の後継者に育てたいと考えていたので、カールの養育権を主張し三男のニコラウス・ヨハンとカスパールの妻ヨハンナと対立することになります。しかし、カールにとってこの伯父の動きは重圧以外の何物でもなかったようです。カールは、かつてベートーベンが難聴に悩んだ時のように、自らの命を絶とうとしましたが未遂に終わっています。弟との対立やカールとの軋轢などで、ベートーベンは数年間作曲活動を停滞させています。そして1827年3月26日、ベートーベンは患っていた病で56年の生涯に幕を下ろします。その最後は、見えない相手をにらみつけるように構えて、「諸君、喝采を。喜劇の終わりだ」と呟いたと伝えられています。

ベートーベンの生き様を知る

ベートーベンは、この時代の音楽家には珍しく貴族などのパトロン(保護者、後援者)を持っていないことが知られています。父ヨハンは、モーツァルトのように宮廷や貴族をパトロンにすれば一生安泰であると考えていたようですが、ベートーベンは頑なに貴族のパトロンを持つことも、宮廷音楽家になることもしませんでした。これは父への反発だけでなく、貴族のパトロンを持つことが既に時代遅れになりつつあることを悟っていたからではないかと考えられます。現に、ベートーベンの師匠であったハイドンはパトロンだったエステルハージ家の代替わりで解雇され、年金生活を送ることになっています。この時代は自由業より宮仕えのほうが不安定だったと言えます。それに、この時代は政情が不安定だったのでいつ引っくり返るかわからない貴族などを相手にするより、文化に目覚めていた民衆を相手にしたほうが確実だったのです。

ベートーベンの人間関係

フランツ・シューベルト癇癪(かんしゃく)の気があったベートーベンには、人間関係でも苦労していたようです。師匠のハイドンとも喧嘩別れしたという話があるほど、その癇癪は強かったのです。そんなベートーベンと上手に付き合っていたのが秘書を務めたアントン・シンドラーと、弟子のカール・ツェルニー、そして友人だったフランツ・シューベルトです。シンドラーは、後にベートーベンの伝記を記していますが後世の研究者からは「自分に都合のいい改竄を加えている」「ベートーベン直筆の草案などの資料を勝手に処分した」などの理由で信頼性が低い人物であると言えます。生前のベートーベンも、シンドラーを心から信頼していたわけではないようです。ツェルニーは9歳でベートーベンの弟子になった生え抜きの人物で、ベートーベンからの信頼も強かったようです。ツェルニーは後にリストの師匠となり、ピアノ演奏の歴史にその名を残しています。シューベルトは「野ばら」や「アヴェ・マリア」で知られるロマン派を代表する音楽家です。ベートーベンとは30歳近くも年が離れているものの、シューベルトの才能を認め親しくなっていったのです。シューベルトは、ベートーベンが没した一年後に後を追うように病没しています。


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